基礎と応用(理科:山崎)

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    勉強する上で良く聴く単語に「基礎」「応用」がある。「基礎が出来なければ応用はできない」という言葉は勉強の場ではよく言われていることだ。

    さて、この「基礎」と「応用」とはどういうものだろうか。よく簡単な範囲を指して「基礎」ということがある。小学校や中学校といった義務教育で学ぶ範囲を指して「基礎」、高校大学といった高等教育で学ぶ範囲を指して「応用」という物言いをする人もいる。しかし、私はそう考えていない。

    知識というものは積み上げられるものである。その中でAという知識の上にBという知識が積まれているとき「A」は基礎、Bは「応用」である。つまり基礎と応用というのは相対的な関係性を指す言葉でしかないというのが私の考えである。ただし、何の応用でもない最下層に位置する「基礎」というものもある。これは絶対的な基礎であり、前提となる知識を必要としない。

    では学問において基礎と応用を意識することにどのような利点があるのだろうか。これは「基礎に帰る」ということに尽きるのではないかと私は考えている。応用の知識は基礎の知識に帰着するというのは、極論すれば基礎を理解するのと同じ容易さで応用を理解できるということである。

    「基礎が理解できていれば応用は簡単」と言われるのはこのためである。応用の理解は応用を基礎へ帰着させるだけでよいのだ。しかし逆に言えば、基礎と同じように勉強しても実らないということでもある。勉強する際は「応用か基礎か」を判別し、応用ならば「何の応用なのか」「どのようにすれば基礎に帰着できるのか」を意識してほしい。

    ひらめくということについて −20−

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      試験で点数を取るために必要な力にはいろいろあるが、頭の中にあるものをひっぱり出す力、というものもその1つである。だから普段の勉強では、自力で答えを出す、ということをどれだけやったかということが大事になる。
      頭の中にあるものを引っぱり出す、ということは<ひらめき>とはいい難い。しかし<ひらめき>を支える大事な要素である。
      試験中というのは練習とは違う雰囲気がある。緊張感がある。必死さがある。それゆえ体力をふだん以上に消耗する。頭の中にあるいろいろなものを意味もなく取り出したり、逆に何も取り出せなかったり混乱するものだ。そんな状況でも力を出そうと思えば、普段の練習でそれなりの負荷をかけるか、本番に耐えうる集中力を身につけるか、あるいは自信をつけるかしかない。それらが本番で<リラックスした状態>を作るのだ。


      (1)練習で負荷をかける
      格闘技で実戦形式の練習をスパーリングという。球技では紅白戦というだろうか。実戦形式を通して試合の流れや空気感をつかむと同時に、その中でどうやって試合に勝つかということを練習するものだ。
      受験においては模試がこれにあたる。本番で体力を消耗する、その感覚も少しは味わえるが、やっぱり本番は格別だ。力が入ってしまう。点を取ろう、取らなくちゃという気持ちが強くなってしまう。だから普段から負荷をかけておいて自分を追い込む、という練習をするのも一つの方法だろう。
      知らない人がたくさんいる中で、普段とは違う時間の流れで、違う環境の中で落ち着いていられるように鍛える。そのための最も手っ取り早い方法が模試というわけだ。しかし模試だって受け続けるうちに慣れてくる。だからその時々に応じて負荷をかけていけばよい。

      (2)本番に耐えうる集中力をつける
      集中力の一番の源は、のめりこむほど好きか、ということだろう。つらくても苦しくても、そんなことが気にならないくらい熱中できるか、それがあれば集中できる。時間を忘れてのめりこむ、というのが好きなことであり得意なことであり集中できることなのだ。
      しかしどの科目でもそんなことができるわけではないだろう。いや一科目としてできないとしても不思議な話ではない。だから試験で集中しようと思えば、そのための動機が必要になる。大学入試であれば、それが大学合格ということになるだろう。それをどれだけ強く自分の中に持っておけるか、そのためなら頑張れるという動機でなくてはならない。すなわちきっかけというのは何でもいいが、その上に積み上がる「動機」というのはしっかりしていなくてはならないということだ。勉強しながら積み上げていけばよい。

      (3)自信をつける
      リラックスした状態、というのは部屋でくつろいでいるとか好きな音楽を聴いているとかそういう時のことを言うのではない、ということは前も述べた。試験のとき、それもいざ問題を解こうというとき、残り時間わずかというとき、問題がなかなか解けないというとき、そういう時に余計な力をいれずに望めるか、その問題のことだけに頭を使えるかということが大事になる。これがリラックスした状態である。
      平常心、という言い方がある。普段通りにやればいい、と言われる。それは本番だからと言って力まずやろうということだ。そのためには一定の自信が必要である。これだけやったから大丈夫とか、これまでも大事なときは上手くやれたとかそういう自信だ。
      根拠のない自信、というものもあるが、根拠(のようなもの)があると自信につながりやすい。あるにこしたことはない、そういう根拠を記録し積み上げていけばよい。


      本番では混乱する。頭の中がぐちゃぐちゃになる。しかしここぞというタイミングで<リラックスした状態>を作る、すなわち頭の中を真っ白にして、今ここだけに気持ちを向ける。そこでやっと、ぴったりのコンセントにつながり、<ひらめき>の回路に電流が走るのだ。

      (つづく・数学科 山下翔)

      ひらめくということについて −19−

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        ひらめくためには<リラックスした状態>が必要である。これは集中している状態と言ってもよい。よく、肩の力を抜いてとか、力まずにとか言ってリラックスするように言われることがあるが、この場合の<リラックスした状態>とは、単に脱力した状態ではない。余計な力を抜いて、物事に集中できるようにした状態のことなのだ。
        ではなぜ、このような状態が必要なのか。それは余計な情報や考えが入りこまないようにするためである。たとえば数学の問題を解いていて、「そういえば今日の晩御飯はなんだろう」とか「明日の国語の小テストの勉強をしなければ」とか思っていては、よからぬ計算ミスをしてしまったり、論理の間違いをひきおこしたりする。あるいは、先に解いた問題のことが気になるのも困りものである。
        それで自分で自在に<リラックスした状態>を作ることができればいいのだが、これがなかなか難しい。まず普段から意識しておかなくては、自分がどんなときにリラックスしているのかわからない。だから意識的にリラックスした状態を思い起こす必要がある。それはどんな時間なのか、場所なのか。誰といるときなのか、何をしているときなのか。そういうことを振り返ってみて、ではどうすれば<リラックスした状態>を作ることができるのか、ということを自分の中に探り当てなくてはならないのだ。
        それができたら、後はそれを自在に作り出せるように練習すればよい。その時何かきっかけがあればいい。例えば何かを見たり、考えたりして<リラックスした状態>を作ることができるようにするのだ。それはおまじないをかける、というのでもいいし、お茶を飲む、というようなことでもいい。

        話は変わるが、子どもの頃の「言い間違い」について近頃少し気になっている。歴史上の偉人でキュリー夫人のことをキューリ夫人と言っていたし、ガガーリンのことをガーガリンと思っていた。こんな言い間違いをしていたのは自分だけかと思っていたが、そうでもなさそうだ。
        例えば映画「となりのトトロ」で、メイちゃんはおたまじゃくしのことを「オジャマタクシ」と言っているし、とうもろこしのことは「トンモロコシ」と言っている。幼いころは誰しもこういういい間違いをするらしい。他にも「雰囲気」のことを「ふいんき」だと思っていたが、正しくは「ふんいき」である。
        しかし一方でこの言い間違いが定着した例もある。「新しい(あたらしい)」と「新たに(あらたに)」がそうである。いい間違い、というよりもむしろ、言いやすい読み方が定着していったのだろう。山茶花と書いて「さざんか」と読むが、漢字通りだと「さんさか」と読みそうだがどうなのだろうか。

        こういう時、他にも「いい間違い」のようなものはないだろうかと考えるわけだが、普段は思っていてもいざ出そうと思うと出てこない、ということがよくある。このような場合は新たにひらめいたり思いついたりするわけではなくて、頭の中の押入れの奥底にあるものや、冷蔵庫の中で賞味期限切れになっているものや、間違ってゴミ箱に捨てたものなどを頑張って引っ張り出すことになる。それがいざという時なかなか難しいのだ。
        ひらめくということとの関連を考えてみたい。

        (つづく・数学科 山下)

        大学受験が大変になる?

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          国語科の児玉です。

          今日はちょっとホットな話題を。

          「国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に」(http://mainichi.jp/feature/exam/news/20131011k0000m040148000c.html

          今日、上記のニュースが世間をにぎわせたかと思います。この報道の真偽は定かではありません。
          これを報道したのは毎日新聞だけでしたし、それどころか

          「文科相「学力試験否定せず」 大学入試での廃止検討に」(http://www.47news.jp/CN/201310/CN2013101101001892.html

          という共同通信の記事が出るに及んで、いわゆる「飛ばし」だったのではないかという疑念も浮上しています。


          しかしながら、今日の毎日新聞の記事が「特ダネ」だったのか「飛ばし」だったのかは本質的にはあまり重要なことではありません。教育再生実行会議がこれまでに出した提言(センター試験を改め「一点刻み」でない新試験にする、など)からは、会議の中で大学入試制度をこういった形に変えることが話題になった、それもそれなりに多くの出席者が乗り気だったのではないか、と推測することができるからです。(全くの推測なので外れてたらごめんなさい)

          もちろん、最終的な提言の中に盛り込まれるかどうかはわからないのですが、もし本当にこれが提言になりさらに実現されて、大学入試が「何回も受けられる共通試験+学力試験でない二次試験」になったら、という世界を想像してみるのも意味あることでしょう。(おそらく、多くの識者が「そんなことは本当に可能なのか」という指摘をされるはずですし、他にもいろいろツッコミが入るのでしょうが、「万難を排してできたとして」という仮定の下で想像してみます)

          一次試験は、センター試験の発展形(レベルも同等)で、何回も受けられるもの、とします。
          学力試験でない二次試験、というのが一体どのようなものを指しているのか、はっきりとは示されていませんので、ここではアメリカの大学入試をモデルにしましょう。というのは、教育再生実行会議のこれまでの大学入試に関する提言は、アメリカの制度を下敷きにしている(というより、模倣している、といっても過言ではない)からです。(それでいいのか、というツッコミもここではなかったことにします)
          いろいろまとめて日本風に言えば、つまり、二次試験は面接と小論文、ということになります。小論文の題材は、おそらく、なにかしらの問題についての論述か、大学に入って学びたいことや抱負を述べよ、というものかになると考えられます。

          さて、この条件で何が起こるでしょう。
          まず第一に、一次試験の難易度が相対的に上がることになるでしょう。
          「何回も受けて良い」のですから、最大瞬間風速的な点数を使うことができるわけで、当然同じ大学でもこれまでより要求される点数が上がります。さらに、これまではセンターと二次の両方の対策が必要だったわけですが、学力試験が一回だけならばそこを集中的に対策すれば良いわけですから、みんな点数が上がるようになるでしょう。
          結果として、九州大学であれば、これまでなら80%強あればよかったのが、90%程度の最高ランク(一点刻みではなく「段階制」にするそうですから)を求められることになる可能性も高いと考えられます。

          次に二次試験ですが、面接・小論文ということになると、求められるのは「ものごとを論理的に考える力」と「明快に表現する力」です。面接だけなら付け焼き刃の対策でも何とかなるでしょうが、本格的な小論文が相手となると安易な対策では手も足も出ません。(政府が何と言おうが、高レベルの大学が「大学に入って学びたいことや抱負を述べよ」という程度の小論文でお茶を濁すといった事態は想像できません。そういう小論文を課したとすると、みんな似たような内容・レベルのものを書いてきて、受験生を選抜できない事態になるでしょうから。)
          こうなると、今の大学入試より大変そうです。「ものごとを論理的に考える力」と「明快に表現する力」が一筋縄で身に付くはずがないからです。今の大学入試は「知識」と「ものごとを論理的に考える力」の両方を問うてきますが(レベルが高いと言われるところほど後者の割合が上がります)、それでも半分以上が知識で済むだけまだ楽と言っても良いでしょう。

          結論として、一次は難しくなる、二次は大変になる、といった事態が想像できます。
          「ものごとを論理的に考える力」と「明快に表現する力」というものは、個人的には、高校生に身につけておいてほしいと思っている力であって、二次試験でそれを問うことになるならば歓迎できますが、高校生は大変になるでしょう。教育再生実行会議は、これまでの提言からは(語弊はありますが)「大学入試を簡素にしたい」と思っているかのように聞こえましたが、このような制度にすると「大学入試を大変にする」ことになる可能性が高いようです。はて、これは本末転倒なのでしょうか、実は狙い通りなのでしょうか?

          大学入試を変えることは、当然ですが、高校教育を変えることにつながっています。出口がどうなっているかに合わせて教えるし、勉強するからです。(その点では、今回の教育再生実行会議が大学入試に目を付けたのは慧眼でしょう。)
          だから、いずれにせよ、大学入試がこれまでより思考力重視になって、高校でも思考力を涵養する教育が行われるようになる改革であれば、私は賛成します。逆に、大学入試を楽にすることになるなら、高校で勉強しない傾向に拍車をかけるだけで、教育の再生とはほど遠い結果で終わるでしょうから、私は反対します。どんな制度になるか、大学入試というものの真価が問われます。

          また、もし大学入試が思考力重視になったら、教える側の真価も問われるでしょう。私たちとしては、これまでも「ものごとを論理的に考える力」を養うことを目的の一つに指導をしてきた、と思っているので、そこは安心して見ていますけれど。

          最後に、大学入試の意義について語る本のご紹介。
            
          代ゼミ講師・富田一彦先生の著。受験生だけでなく、大学受験制度に興味ある方は必読です。(書評はヘタなので、ご勘弁を……)

          ひらめくということについて −18−

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            ひらめくためには、リラックスした状態が必要である。ひらめくための土壌というようなものがあって、そこを掘り返して、空気を入れたり柔らかくしたりする。そうしてリラックスした状態を作るのだ。
            考えること、哲学することに関しては、西研に『哲学のモノサシ』という本がある。考える楽しみや哲学の歴史などを独特の挿絵と面白い解説があって、なかなか面白い。そこに「風通しをよくする」という話がでてくる。そうやってぎちぎちに固まった土壌を耕し、そこに美しいものを掘り当てることが哲学することだと序盤で述べている。
            この美しいものを掘り当てる、ということが一つは<ひらめく>ということにつながる。何となく気になっていたことにある答えのようなものが見つかったり、あるいは、普段は気にもとめないようなことに意識的になったり、ということは楽しいことだ。それは<ひらめき>の快感に通じる。
            しかし<ひらめき>というのは、苦痛の先に得られる快感ではない。苦しんで、もがいて、うんうん唸って、その先に得られる心地よさではない。確かに<ひらめく>までの全ての過程を見れば、そこに苦しい時間というものもある。出口の見えない問いの前で、何をしていいかわからない状態で模索し、途方もないように思えてきて、投げ出したり、でもやっぱりと取り組みなおしたりしながら格闘する。けれどもそれは単に<ひらめく>ために常に日頃からやっておかなくてはならない、準備運動に過ぎないのだ。普段から頭を使って考える、ということがあって、その中で<ひらめく>必要がでてきたら、<リラックスした状態>を作るのだ。

            とは言っても、この<リラックスした状態>を作るのが難しい。テストでも試合でも、練習ではできていたことが本番ではできんくなってしまう、ということがないだろうか。練習の時には一度もなかったような間違い方をしたり、普段は気をつけていることが試合ではうっかりできなくてミスをしたり、ということがあるように思う。それはすべて<リラックスした状態>が作れていないことによる。
            ではなぜ、大事な場面に限って<リラックスした状態>が作れないのか。それは<リラックスした状態>を作る練習をしていないからだ。普段は<リラックスした状態>が要求されることはほとんどないように思う。あるいは自然に<リラックスした状態>を作ることができる。しかしそのほとんどは、たまたま<リラックスした状態>になっているだけなのだ。作る、ということは、自分からそうする、というニュアンスがある(たとえば英語のbe動詞と一般動詞のような違いがあるのを感じてもらえると思う)。そのためには、

            ・<リラックスした状態>とは何か
            ・何のために<リラックスした状態>を作るのか
            ・どうやって<リラックスした状態>を作るのか

            ということをはっきりさせなくてはならない。これはこの話に限ったことではない。定義、目的、方法(やり方)、時にはやられ方(受け方)をはっきりさせなくては、その上に話が積みあがらない。

            (つづく・数学科 山下)


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