授業後の風景

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    4月から始まった今年度の九大研の授業も、半年間でだいぶ様子が変わってきたように思います。
    要因としては、生徒同士・生徒と講師が打ち解けてきたのが大きいでしょうか。
    皆、自分の意見を述べたり、解答を発表したりするなど、和気あいあいと授業に取り組んでいます。
    演習の場面では、目の前の問題にしっかり集中する様子も見られます。
    特に、中3・高3の授業は、入試に向けてピリリとした雰囲気で進められていますね。

    ところで、授業後の様子というのは学年によってかなりまちまちです。
    今年受験を控えていない生徒には、親御さんの迎えを待ちながらおしゃべりをしたり、白板に落書きをしたり、本を読んだりして過ごす人が少なくありません。勉強が終わったら、リラックスする時間に切り替えているようです。
    (もちろん、勉強が終わったらさっさと帰宅する人も結構います。)

    一方、受験生は皆、授業後にするべきことが終わると、サッと帰り支度をして帰宅します。
    私たち講師はその様子を見て、「切り替えが上手くて良いね!」とに言います。
    それはなぜか?
    授業後にダラダラ時間を過ごすこと無く帰宅するのは、時間の使い方が上手であることの表れだからです。

    ぜひ、この習慣を続けていってほしいな、と思います。


    おまけ  生徒が授業後にホワイトボードに書いた絵たち(10/31)

    ひらめくということについて−22−

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      <新しい概念を取りいれる>ということは、大雑把に言えば<勉強する>ということだ。だから、自分の中にその概念が入るまではそれを取りいれる意義がわからない。新しい概念というものには必然性や有難みがあるわけだし、応用があるわけで、それが時には<新しい概念を取りいれる>モチベーションになることもある。しかしそれは、時々そういうこともある、という程度の話であるから、あてにしない方がいい。<勉強する>ということの意味は、勉強することによって入手するモノサシを以って勉強した内容の意味を理解する、というところにある。意味もわからずやり始める、というのが<新しい概念を取りいれる>ということであり、<勉強する>ということなのだ。

      <新しい概念を取りいれる>ことに対する抵抗は、そういう「意味のわからなさ」にあるのだが、<新しい概念を取りいれる>過程においては、何も全体としての漠然とした「意味のわからなさ」だけがあるわけではなく、些細な技術においてもそういう類の「意味のわからなさ」がある。
      例えば折り紙。やり慣れないうちは、折り目をつけるという行程はなくてもいいように思うものだ。それは折り目をつけるという作業が、「直接は関係しない」「ひと手間」であるからだろう。その「ひと手間」がどういう風に役立つのかがわからない、完成したときにどういう影響を及ぼすかわからない、それでその行程は「省略可能」と判断するのだ。そういうことの有難みはそれを終えてみないとわからない。繰り返しになるが、ここに<勉強する>ことの難しさがある。
      (つづく・数学科 山下翔)

      ひらめくということについて−21−

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        <ひらめく>ためには<リラックスした状態>が必要だという話をしていた。頭の中がぐちゃぐちゃになった状態からすっと解放されたとき、ふっと<ひらめく>のであった。自分の頭の中にあるいくつかのことが、混乱の中で結びつくところに<ひらめき>があるのだ。しかし自分の頭の中に入っている知識なんてものはたかが知れている。時には(あるいは日頃から)新しい知識や考えの枠組みを自分の頭の中に取り入れていかなくてはならない。そしてそれを、自分のものとして使えるようにしておかなくてはならない。
        そこでここからはしばらく、頭の中をぐちゃぐちゃにするための、<新しい概念を取りいれる>ということを考えていきたい。

        新しい考え方や概念を理解しようと思うとき、具体例が役に立つ。このことは体験的にもよくわかることだと思う。

        例えば推論の方法として「帰納法」や「演繹法」があるが、これを「個別の事象から一般的な法則を導く方法」や「一般的な法則を個別の事象に適用する方法」とだけ言われてもピンとこないと思う。そこで大事になるのが「例えば」という考え方だ。これが理解を助ける。
        あるいは数学ではたくさんの定義や定理が出てくる。定義には必然性があるし、定理には心がある。この心は気分とか雰囲気とか言われることもあるが、この必然性や心がわかっていないと実際にはあまり役に立たないのだ。そこでまずは具体例でその感触を掴む。そしてその骨格を証明で理解し、利用や応用をみていきながらその肉体を獲得するのである。

        しかしこのとき、あまりにわかりやすい具体例というのは、逆に理解を妨げてしまう。感触を掴み損ねるのだ。本当は自分の今の範疇を越えていかなくてはならないのに、自分の知っている範囲に引きずりこもうとしてしまう。新しい考え方の方に、自ら近づいていかなくてはならないのに、それを怠ってしまう。それで、何とか理解したことにしようとしてしまうのだ。

        中学1年生で1次方程式を習うとき、「1次方程式の利用」ということで、文章題に取り組む。しかしこれらの文章題の多くは、少し工夫すれば方程式を使わずとも解けてしまう。これがやっかいなのだ。解けてしまうから、「方程式を使って考える」という新しい考え方を掴み損ねる。とりあえず目の前の問題は解けるのだから「方程式は使わなくてもいい」と考えてしまう。もっとひどくなると「方程式を使わなくても解けるなんて、自分はすごい」と思ってしまう。

        確かに<新しい概念を取りいれる>ことは心地よくない場合の方が多い。これまで持っている自分の知識や考え方を駆使して処理できる、ということも大事な力である。実際<新しい概念を取りいれる>のには時間がかかるため、緊急性のある場合(たとえばテストなど)はそれにこだわってはいられない。
        しかしそれではいずれ限界がくるのだ。どこかで越えなければならない壁である。それならば少しずつそれを理解しようと思って取り組むほうが賢明である。急激な変化に戸惑う気持ちもわかるし、それをなかなか受け入れられないもどかしさもわかる。だからこそ乗り越える価値があるのだ。

        (つづく・数学科 山下翔)

        聞こえるがままにメモをとる

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          国語科のMです。

          「日本語でこう喋ると、海外でなんか正しく通じてしまう」言葉なんてものがあります。有名なのは「掘った芋いじんな」ですね。これを言うと、最初は首を傾げられるものの、早口で二、三回繰り返すうちに腕時計なんかで確かめて「今は十時ですよ」と教えてくれたりする。「掘った芋いじんな(ホッタィモイズィンナゥ)」が、「What time is it now?」に聞こえなくもない……ようです。ただ無理矢理と言えば無理矢理なものですから、始終首を傾げっぱなしとなることも稀ではないみたいですが。
          個人的な体験から例を挙げてみますと、チャップリンの演説を拝聴中、「let us」が「レタス」にしか聞こえなくなって、一瞬で一面のレタス畑が頭の中に出来上がってしまったことがあります。(こみ上げる笑いを抑え込むのに一苦労しました。こういう笑ってはいけない空気の中での不意打ちは、いくら下らないものであっても笑えてくるのです。)「let us」事体、今ではもうあまり使われないような気もしますし、英語圏の方に言ってみたことはないのですが、そう聞こえるということは案外通じるのではないか……と思わなくもない。

          これらは「変な日本語が英語に」の例ですが、逆に「変な英語が日本語に」の例もあります。

          free care car was to become Ms. Note

          日本を代表する、といっても過言ではないくらい有名な俳句を、日本語についてあまりよく知らない英語圏の人が聞こえるがままにメモすると、こんなふうになるようです。 文章としては成り立ちませんが、「音」だけに注目して発音されたものを聞いてみると、最初は首を傾げるものの、数回聞くうちに、「ああ……あれか」となる。誰かに読んでもらって、それを隣で聞く方がわかりやすいでしょう。
          上記は、「これを日本語に直して、作者を答えよ」というなぞなぞとして出題されることもあるようですが、同様にしてさまざまなものを逆空耳して出題し合うのも面白いかもしれませんね。ただ、作るのはどうやら一苦労です。

          安土桃山時代の末から江戸時代初期に編纂された『日葡辞書』などは、当時のポルトガル人が、聞こえるがままに、日本語を自国の言葉で書き記したものです。こういったものを参考にすると、当時、日本人は日本語をどのように発音していたかが客観的にわかるので、大切な言語史の資料となっています(もちろん、ポルトガル語の発音について、基本的な部分をちょこっとかじっておく必要があります)。ですからもしかしたら、「掘った芋いじんな」がいつか、英語の発音資料として用いられる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。

          ……来ないとは思いますが。

          Typhoons are coming!

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            ここ最近、台風が天気図に出現しない週がないような気がします。
            今週は27号・28号が日本列島に近づいてきていますね。

            台風には、名前がつけられています。「アジア名」というやつです。(ご存知の方も多いでしょう。)
            ちなみに、27号はFrancisco(フランシスコ)、28号はLekima(レキマー)です。
            これらの名前は、2000年以降、台風の国際的な呼称として使用されています。日本の気象予報ではあまり頻繁には使われませんが、日本国外では広く使われているようです。
            ところでこの「アジア名」、全部で140個も用意されている事をご存知でしょうか。
            14カ国・各10個の名前を出し、並べたリストがあるのです。準備万端ですね。
            もちろん、その中には日本語の名前もあります。Tembin、Yagi、Usagi、Kajiki、など。その関連性については……気になる方はぜひ調べてみてください!

            台風関連の豆知識をもう一つ。
            2つの熱帯低気圧が接近した場合、互いに干渉して通常とは異なる進路をとる現象を「藤原の効果」と言います。
            私はこの度初めてこれを知り、驚きました。……その名前に。
            英語だと、「Fujiwhara Effect」。かっこいい、のに。
            日本語だと「藤原の効果」なのです。……。
            初見だったので、モヤッとしました。(藤原さん、ごめんなさい。)
            仮にこれを中学校理科で教えると、しばらく「山本の効果」だの「古賀の効果」だのが流行りそうですね。なんだかポ●モンっぽい感じです。
            そういえば、「フジワラエフェクト」は、必殺技っぽいなぁ……。
            (「喰らえッ、フジワラ、エフェーーックト!!!」的な)

            と、台風について改めて調べてみると、知らない事が多くありました。
            テストに出るわけでもない、知っていて特別いい事があるわけでもないでしょうが、「知りたい」という欲は満たされるように思います。
            また、知った事をもとに家族や友達との会話も弾むかもしれません。

            台風の進路によっては、外出を控えなければならない週末になるでしょう。が、そんな時は、普段わざわざ調べないような事を調べてみて、暇つぶしをしてみてはいかがでしょうか。


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