感覚を形に、形を感覚に。(理科:山崎)

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    今今日は九大祭二日目。学生時代の私にとって九大祭シーズンと言えばちょっとした休暇をもらえる期間で、九大祭などそっちのけで小旅行に出たり家に籠って趣味に励んだりしたものである。学生の頃、九大祭に行ったのは2回。それも一度目は高校三年生の時であった。六本松キャンパス時代に、高校の先輩に少しおごってもらったのを覚えている。それに、どこかのサークルの企画のクイズに挑戦してちょっとした景品をもらった。結局その時一緒に連れ立ったメンバー四人のうち、二人は現役合格、私ともう一人は浪人という結果となった。今となってはいい思い出である。

    さて、その時のメンバーで合格した者の一人は、現在九大の博士課程の学生なのだが、彼と食事する機会があった。その際彼の口から面白い話を聞いた。

    「「力の釣り合い」=「エネルギーの位置的な極小」じゃないか?」

    なるほど、と膝を叩いた。エネルギー(仕事)は力と位置の積分と考えられるから、逆に考えればエネルギーを位置で微分すれば力ということになる。これが0なのだから、これはまぎれもなく数学でいうところの「極小」であろう。「力の釣り合い」というのは中学生でも知っていることではあるが、これが大学レベルと言って差し支えない「ポテンシャルの穴に、状態は落ち着く」という考え方とマッチしていたのである。

    理科の学習に携わっていると、こういう発見がよくある。他の教科でもあるのだろうが殊更物理に関してはこういった発見が多いように感じる。それ自体は文献をひも解けばどこかに記載されているものかもしれないが、高い次元から基礎的な内容をとらえるというのはなかなかに面白い。

    さて、特に物理というものは数学に近く、それでいて現実的な感覚も通用する世界である。だからこそできることとして「感覚を形に」ということをお勧めしたい。
    例えばあなたが勘良く「これは○○なんじゃないか」と感じたとする。しかしそれが実際に正しいのかどうなのかはわからない。そういったものに出会ったとき、物理や数学であったならそれが正しいのかどうかの証明をぜひ行ってみてほしい。この証明は他の様々な「問題」における証明よりもかなり楽しいものになるだろう。また、それ以外の教科では師に学ぶ、或いは文献をひも解く等してそれが本当であるかどうか確かめて欲しい。

    なんにせよ、感覚的なものをしっかりとした形に。勘を確信に変えてもらいたい。それが出来たなら学問の喜びを一つ知ることが出来たと言ってもいいだろう。

    また、こちらはより難しい試みではあるが、形になっているものを感覚にしてみるのも面白い。字面や数式でしかとらえていなかったものを感覚としてとらえられたなら、それはより深い理解への大きな助けとなるだろう。

    吹き抜けを封印!

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      4ヶ月前、我が九大研では暑さ対策に余念がなかったのですが、今では冬支度の真っ最中です。
      ・各部屋にオイルヒーターを配備する
      ・窓ガラスにプチプチシートを貼って、冷気をシャットアウトする
      ・その他冷気の侵入口を塞ぐ
      とにかく寒いです、木造日本家屋ですから。隙間だらけなんです。

      そんな中、本日は職員室上の吹き抜けを、布で塞ぐという大仕事を完了しました。
      なぜこんな事をするのか? といいますと、暖かい空気は上方へ逃げて行くのです。折角ストーブで部屋の温度を上げても、吹き抜けから二階へと暖気が逃げ、代わりに冷気が降りて来るのです。

      寒すぎます。

      というわけで、これからしばらくの間、エントランスからの吹き抜けは布で塞がれて見えません。(その代わり(?)二階部分の「隠れ家」感は増します。)
      布天井がどんな感じになったかは、ぜひ直接ご覧ください。


      おまけ
      職員室の冬のお供 対流式ストーブ(お芋も焼けるよ!)

      ひらめくということについて −24−

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        2次関数の最大値や最小値を考えよう、というテーマがあったとしよう。このとき、2次関数の式をじっと眺めていてもわからないから、まずはグラフを描いて様子を見てみようとする。これが<具体的にやってみること>の1つである。グラフの描き方をまだ習得していないのであれば、2次関数のグラフが放物線になること、そしてその放物線は頂点と軸と凸(上に凸なのか下に凸なのか)で決まる、ということを学ばなくてはならない。それで手始めに点をプロットしてみてグラフの概形を探ってゆく。これも<具体的にやってみること>の1つである。これ以上やるとくどくなるが、もう1つだけやっておく。関数を表すグラフ、というものがそもそも何なのかわからない場合もあるだろう。こうなると、関数とは何か、座標とは何か、ということから考えなくてならない。yがxの関数であるとは、「xを決めると、それにともなってyがただ1つ決まる」ような対応があることを意味する。さすがに全部のxに関して調べるのは難しいので、その対応の一部を表にしてみる。そうして(x、y)のペアを座標として平面にプロットするのであった。それはいわば平面上の位置である。ここで関数の例を考えたり、座標を日常生活の中に見つけたり、実際に表を描いたりすることは、やはり<具体的にやってみること>の1つである。

        さて、こうして考えてみると−実は上で「2次関数」を<例>に<具体的にやってみること>とは何かを考えたことも<具体的にやってみること>の1つである−<具体的にやってみること>について、次の2つの性質がわかる。
        (1)<具体的にやってみること>ができるレベルまで戻る必要がある
        (2)戻ってゆくと、どんどん根本的なところへいって、具体性が失われてゆく
        ここに<具体的にやってみること>のジレンマがある。自分の中でよくわかって<具体的にやってみること>を実践しようと思うと、ある程度簡単なことから始めなければならない。しかし、簡単なことの方がかえって難しいのだ。だから、ある程度はそういうものだと認めた上で、<具体的にやってみること>が大事なのだ。自分では納得がいっていなくても、そうであるらしいと信じて、とにかく手を動かしてみる。そこに<具体的にやってみること>の難しさと価値がある。

        どうして難しいのか。それは、「何だかよくわからないもの」を信じなければならないからである。「わからない」と言って投げ出すのは、<具体的にやってみること>のできなさにあると言ったが、それは「なぜ、何だかよくわからないものを信じなければならないのか」という疑問に回収されるのだ。実際にはそこまではっきりとした感情ではないだろう。もっともやもやした「何となくやる気がおきない」くらいのものだと思う。いずれにしても、具体的にやってみる前の段階では、信じてみることの価値がわからない。それで信じてみること、すなわち<具体的にやってみること>に意欲がわかないのだ。勉強するということは、その信じてみることの価値を、勉強することによって見出していくことなのだから、そういう意味では<具体的にやってみること>へ向かおうという姿勢がないのは別に不思議なことではない。自分の興味ある事柄である、といった何らかのモチベーションがあれば話は違ってくるが、そういう特別な事情がない限り、<具体的にやってみること>は積極的には行われないのだ。
        このような状況であるから、よくわからないことがあれば積極的に質問したい。自分で調べてみるのもいいが、やみくもにやるのは効率的でない。自分の怠惰を叱られることもあるだろうが、それは叱られたら反省して改めればいいだけのことだ。すべてを懇切丁寧に教えてもらえるとは限らないが、やり方の指針くらいは与えてくれるだろう。自分でやるときもそれを頼りに、自分なりのやり方を身につけていけばよい。
        よくわかっていて、それについて教えられる、というのは理解のレベルでは自分よりはるかに上をいっている。難しいことを簡単に説明しようと思えば、その事柄の核がわかっていなければならない。そうしないと、曖昧な言葉で説明はぐちゃぐちゃとよくわからないものになってしまうからだ。だからその<心>を伝授してもらう、という意味でも質問することは大事なことなのだ。

        <具体的にやってみること>の3つめの性質を最後に述べておく。
        (3)どういう風に具体的にやってみればいいか質問することが大事

        (つづく・数学科 山下翔)

        ひらめくということについて−23−

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          ひらめくための土壌作りとして、<新しい概念を取りいれる>ことが必要だという話だった。これは、これまでに自分の中につくってきた考え方や持っている見方で新しい概念を何とか理解してやろう、という姿勢ではない。「意味のわからなさ」をそのまま受容していこうという姿勢が<新しい概念を取りいれる>ときには必要なのだ。あまりにもわかりやすい具体例は本質から遠い。それが理解を妨げる、ということも述べた。

          <新しい概念を取りいれる>とき、それを無理にこれまでのことと関連付けると失敗する、という意味で、それは本当に「新しい」ものでなくてはならない。仮にそれが「新しい」ものでないとしたら、それは単にこれまで獲得してきたものを整理し直したり、補強したりしているに過ぎない。それはそれとして畑を耕したり、草を抜いたりするくらいには重要なことだ。しかし、それだけでは限界がくる、そこで、<新しい概念を取りいれる>ことが必要になるのだ。類似や延長や拡大や制限であってはいけない、そういう意味で「新しい」という言葉を使っている。
          本当に「新しい」ことであるから、もちろん馴染みがない。だからまずは馴染むことから始めたい。実際にその考え方や道具を使うことだ。このときに役立つのが具体例だ、ということも繰り返し言ってきた。様子のよくわかるものを使って、輪郭や手触りを掴む。そして、その概念の中にもぐりこむのだ。同時にこの具体例は、<新しい概念を取りいれる>ことが正しくできているかどうかを判定する材料にもなる。結城浩の『数学ガール』に「例示は理解の試金石」という言葉がある。<新しい概念を取りいれる>とき、それが本当に自分の中に取り込まれたかどうかを計るには、例示ができるかを試せばよい、ということだ。数学であれば、「問題を作れるか」というのも理解の程度を計る1つの指標となり得るが、これも例示の一種である。

          前置きが長くなったが、この具体的にやってみる、ということが難しいという話をしたい。<新しい概念を取りいれる>こと、簡単に言えば<勉強する>ことの難しさはここにあると言ってもいい。現に、「わからない」「習っていない」「難しい」と言って放棄する小中学生が多い。さすがに高校生にもなると、わからないこと、新しいことに直面する抗体のようなものができてきて、こういう放棄の仕方はしなくなるが、それでも多少はある。
          難しいことというのは、具体的なものにできない、ということである。そしてそれゆえ、その<正体>が見えない不安におそわれる。実体のつかめないものへの、そこからくる怖れである。この怖れが<新しい概念を取りいれる>ことを拒む。たとえば「別の方法でもできる」という安易な逃げは、こういうところに端を発する。単によくわからないものを使うことに踏み込めないでいるだけなのだ。
          教科書を読んでいて書いてあることがわからないとやる気が起きないという現象も、<具体的にやってみること>のできなさによって、<新しい概念を取りいれる>ことから逃避しているに過ぎない。当の本人の主張としては、逃避せざるを得ない、ということになるだろう。一つの防衛規制−切迫した状況において自分が傷つくのを防ぎ、自分自身を維持しようとする心の動き−であるから、それ自体は自然なことだ。それで興味としては、どうやってそれを乗り越えるか、というところにある。<具体的にやってみること>のできなさを越えて、多少の労は伴うかもしれないが、抵抗なく<新しい概念を取りいれる>ことができれば、いろんなことに挑戦できるからだ。「多少の」労、と書いたが、ここが「多大の」であればどうにかなる。これを「多少の」で済ませる技術について、少し考えていきたい。

          (つづく・数学科 山下翔)

          言葉の根っこに目を向ける

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            猫のいる生活をしている国語科のMです。

            我が家の猫はお出でになってから早六年、人間換算して三十代も半ばの御歳なのですが、相変わらずお嬢さんと呼ばれて愛想を振りまいております。近頃は食事中の人間の膝を占領するのが彼女のブームらしく、私は両腕をめいいっぱい伸ばして茶碗を持ち、湯のみを取りと、お行儀よく丸まっているお嬢さんの傍ら、なりふり構わず飯を食っております。極めて食べづらいことで、膝から退かせば早い話ではあるのですが、猫の癖なのかお嬢の癖なのか伸びのついでに右手を伸ばしてどこかしらしがみ付くのです。そしてそのまま寝始める。そうでなければ、ちょっと置いた人間の腕をあご乗せにして寝始める………寝子ですから本当によく眠る。如何ともし難い。

            猫は寝る子で寝子なのか、「ねう」と鳴くからね子なのか、名前の由来についてはっきりとしたことはわかりませんが、だいぶ前に「ぴよ」と鳴くからひよ子である、「ぱたぱた」とはためくから旗である、という話をここで書いたことがあります。
            言葉の由来やもともとの意味を知ると案外面白いものがあって、その「面白さ」を感じることで、今まで覚えられなかった言葉・親しみのなかった事柄が、すんなりと頭に入ってくることも稀ではありません。私事ですが例えを挙げてみますと、木の葉をくるくる巻いて、その中心に卵を一つ産み付ける昆虫がいるのですが、その巻いた葉っぱがまるで封書のように見えることから、その昆虫は「オトシブミ(落とし文)」と名付けられている……とか、鋭く蛇行する稲妻形の線のことを「じぐざぐ」と言いますが、これが実は「zigzag」という英単語そのものである……とか、新鮮な驚きをもって手に入れた知識と言うのは、なかなか忘れ得ない。(そして、こうして雑学ばかり覚えていきます。)
            国語科としては、簡単そうでなかなか覚えづらい古文単語も、そういう新鮮な驚き・面白みをもって覚えられたらいいのになあ……と思うのです。

            さて、「こころもとなし」という重要古文単語があります。
            これは、「1、待ち遠しい・じれったい」「2、気がかりだ・不安だ」「3、ぼんやりしている・はっきりしない」「4、不十分で物足りない」などという意味を持っています。これを「こころもとなし=1、2、3、4の意味を持つ。覚えろ。」と、そのまま突きつけられると、覚えるのは中々難儀です。そこで一旦、単語をバラバラにしてみる。「こころもとなし」と言う単語を、「こころ」「もと」「なし」と更にばらけさせて、「こころもとなし」の由来を考えてみる。
            「こころ」は「心」です。我々が常に胸の中に抱いているものです。それは思考であったり、感情であったり、理性であったり、何か悦なことに興ずる面白みであったりします。現代でも古代でも大きな認識の変化はないようです。「もと」は、「根元」の「もと」と同じです。地面のように揺るがないものにしっかりと根を張って、ともすると不安定な枝葉を支える役目を持つ部分です。「なし」は「無し」。それが無いという意味です。これらを合わせると、「こころもとなし=心という、ふわふわしがちなものを、しっかりと支える根元の部分が失われた状態」であると解釈できます。
            「そわそわ」と「浮足立って」いるのです。
            心から楽しみにしているものが、まだまだ遠くにあって、手元にない。その時の「そわそわ」は「待ち遠しい」。何かと気がかりで、心に留まっているものが、はっきりと認識できる状態でない。その時の「そわそわ」は「気にかかる」。大したことではないかも知れないけれど、ちらちら情報は入ってくる。その時の「そわそわ」は「(はっきりわかればいいのに)ぼんやりしている」。
            ———以上のように連想ゲームをする。

            極端な話、原義に近い「そわそわ」だけを理解しておいて、後は上記のように状況によって相応しい訳語を考える、という手もあるっちゃあります。……ただし、丸暗記を険しい道に例えるのならば、この原義のみに頼る道は獣道に近い方法なんじゃないかな。現代語訳を要求される古文に取り組むのでしたら、暗記の助けにする程度が、きっとちょうどいいでしょう。一つの原義からの派生派生で意味を理解する訳ですから、実際、覚えやすくなります。


            (※参考文献 『旺文社 全訳古語辞典 第三版』)


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