ひらめくということについて −26−

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    <具体的にやってみること>について話をしていた。
    (1)<具体的にやってみること>ができるレベルまで戻る必要がある
    (2)戻ってゆくと、どんどん根本的なところへいって、具体性が失われてゆく
    (3)どういう風に具体的にやってみればいいか質問することが大事
    という風に、3つの性質を挙げていたが、少し路線を変えて、もう1つ別の性質を考えていこうと思う。性質というよりも、目的意識と言った方がいいかもしれないが、<具体的にやってみる>ということは、
    (4)普段やっていることから性質や構造だけを抜き取るためにやる
    ということだ。抽象化されたものをわかろうと思えば、1つには具体を探ってみるという方法がある、ということである。

    例えば次のような問題がある。
    [問題] 50 L入る容器に毎分x Lの割合で水を入れていくと、y分でいっぱいになる。このときyをxの式で表せ。
    文字式で関係を表すことに慣れていないうちはこれがなかなか難しい。「割合」という言葉が入っているのも難しくしている原因ではあるが、そもそもピンときていないことによる。
    こういう場合は、xとなっているところを<具体的な>数字にしてみるとよい。例えばxを10とすると、1分で10 L入るわけだから
    50÷10=5
    より、5分でいっぱいになることがわかる。これだけではまだ<性質>とか<構造>のようなものは見えてこないから、他の数字で試してみる。xを5とすると、
    50÷5=10
    より、10分でいっぱいになることがわかる。例えばxを2とすると、
    50÷2=25
    より、25分でいっぱいになることがわかる。これくらいやると、
    (全体の量:50)÷(1分あたりの量:x)=(かかる時間:y)
    という様子がだんだんわかってくる。普段やっていることを抽象化していく作業は、<具体的な>ところからはじめて、そこに潜んでいる<性質>や<構造>だけを抽出していくことである。したがって、<具体的にやってみること>は、普段へ普段へと戻っていくことである。

    (2)で、根本的なところに戻っていくから具体性が失われると言ったが、今回のようなことをやる時は、具体性が失われる方向にはいかない。戻っていくにも戻り方があって、その戻り方のヴェリエーションをたくさんもっていることが、<具体的にやってみる>時には役に立つ。
    よく、問題を解こうとしたときの感想として「何をどうしていいのかわからなかった。」「全く手がでなかった。」というようなことを聞くが、この<具体的にやってみる>方向のヴァリエーションが少ないことによる状況である。
    <ひらめく>ためには「まず常識を疑ってみることが大事」という意見があると思うが、そこまで極端でなくとも、<疑い方を知っている>ことは必要になる。

    (つづく・数学科 山下翔)

    「わかる」と「出来る」(理科:山崎)

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      勉強においてよく言われることとして
      「『わかる』と『出来る』は違う。わかるだけではなくて出来るようになりなさい」
      というものがある。私もこの言葉を言われながら授業を受け勉強をしてきた人間であるし、この言葉自体に異議を唱えるつもりはさらさらない。


      しかし、実際には「わかっていないのにできてしまう」ということがある。偶然か勘の良さからか、或いは設問が浅い理解や勘違いでも正解にたどり着けてしまうからか、とにかくそういう状況は存在する。我々講師からすると困ったもので、問題が解けてしまうため本人は「わかる」を達成できていないことに気付けない。我々からするといろいろと隙が見えていることが多いのでだいたい気付くのだが、放っておくと本人にその危機感が無いのでなかなか改善しない。

      こういう事態を防ぐために、なにをすればよいか。簡単である。難しめの問題に取り組めばいい。特に高校レベルの物理や化学においては、十分な理解が出来ていれば応用問題や初見の問題に対応できないということはほぼない。出来ないのであれば、理解の程度が浅いということが殆どだ。高校レベルの話であっても、学問というのは意外なほど底が深い。

      今の時期の受験生にこのような深い理解を求めると、受験に間に合わないということになってしまうかもしれない。しかし二年生以下の諸君には出来るだけ深いところまで「わかる」という状態を作ってほしい。理想論かもしれないが、私にはそれだけの価値があるように思われるのだ。

      お知らせ

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        12月4日、「元岡学び家 九大研」および「九大家庭教師の会」の電話・ファックスが一時不通となっておりました。
        (092-407-8169、092-407-7251)
        現在、電話・ファックス共に復旧しております。
        お客様に多大なご迷惑をおかけしたことを、お詫び申し上げます。


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        12月4日現在、「元岡学び家 九大研」および「九大家庭教師の会」の電話・ファックスが不通となっております。
        (092-407-8169、092-407-7251)

        お客様には多大なご迷惑をおかけし、大変申し訳ありません。
        復旧し次第、ブログにてお知らせ致します。

        「しばしとどめむ(※ネタバレ注意)」

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          国語科のMです。

          羽衣がストーリーに深くかかわるお話のことを、羽衣伝説と言います。
          大まかには、「何らかの形で、天女が天から降りてくる。→それを目撃した男が、天女に恋をする。→天女が天に帰ってしまわないように、男はその羽衣を隠す。(→後の展開は様々。)」という流れでお話が進むのですが、逆に、「天人がうちの子をかっさらっていくのではないか。」と、人間の方がやきもきする描写も物語の中にはあったりします。

          例えば、『狭衣物語』などでは、主人公が光源氏を思わせるほど眉目秀麗であるのみならず、和歌を始めとする種々の才覚に恵まれすぎているものですから、その母君は「天人などの、はじめて天降り給たるにや(天人なんかの生まれ変わりでいらっしゃるんじゃないかしら)」と思ったり、風が吹いても「まさか天からの迎えが」、月の光が眩くても「まさか月からの使者が」、とそわそわしたりして、風の音・月の影をも忌々しく思うという描写があります。笛を吹いていたら実際に迎えに来た物語もあったのですが、あれは何という題名のお話だったか。
          また、『夜の寝覚』という物語では、天人が主人公の中の君に、夢の中で琵琶を教える場面があります。こちらは、才覚及び見目形の素晴らしいあまり天の国に連れられてどう……という展開ではなく、天から琵琶の才、そして予言めいた言葉を授かるという描写になっています。

          そして、天人が関係する最も有名なお話と言えば恐らく『竹取物語』なのですが、先日から上映が始まりましたね。かぐや姫の物語。国語科ですもの。観て来ました。

          竹取物語自体は何度か読んだことがありましたが、かぐや姫が地上に下された理由、そして彼女の心の動きについて、あんなに深く考察したことはなかったなあ、げにさもとや思ふらん……と、折々考えつつ楽しんできました。楽しむ途中で、冒頭の羽衣伝説を思い出した訳です。かぐや姫が地上に降りたその経緯も、もちろん劇中で表現されていましたが、もしや羽衣伝説が別の形で絡みはしないか、もともと地上人だったとしたら等々。
          夕顔や末摘花の例もありますから、粗末な屋敷に住む女性が召し上げられることもあったでしょう。天真爛漫な女の子がそうやって都住まいを始め、ひとり寝る夜の明くる間という思いをし、嘆きのない天上に迎え入れられたは良いものの故郷である地上を恋いして、何度もそれを繰り返しているとすれば、これもまた罪なのだろうなと映画を思い返しつつふと思ったのでした。

          一個人のちょっとした感想です。

          ひらめくということについて −25−

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            最近はずいぶん減ったが、物を集めるのが好きだった。ポケモンカード、裏紙、パンフレット、漫画本、学校で配布されるプリント、食器、紙ファイルの綴じ具(プラスチック製)などいろんなものを集めていた。完全に集めることが目的だったとまではいかないが、振り返ってみると、ほとんどそういうことだったのだろう。当時は「何かの役に立つかも」と思って、ありもしない需要にも少しだけ期待して集めていたが、今となっては何にも残っていない。

            中学生までは<裏紙>と<パンフレット>集めが主だった気がする。
            裏紙はサイズごとに分類して仮置き場に保管する。ある程度集まった頃合を見計らって100枚ごとに仕切り用の細い紙をはさみ、500枚ごとに包装していた。B4サイズのものをよく作っていたが、学年があがるにつれてA4の紙を配られることが増えてきたので、A5サイズも作るようになった。「ザラ紙」と「西洋紙(当時はそう呼ばれていた気がする)」があって、後者が真っ白でさらさらしていて、なんとなく上等な感じがしていた。実際、大事なことでない限り「ザラ紙」がたくさん使われていた。だから西洋史の束は貴重で、包装して結局使わずじまいだったものもある。
            よく旅行に連れていってもらっていたので、行く先々でパンフレットをもらってはクリアポケットファイルに挟み込んでいた。沖縄を除く九州・山口はかなり行ったので、観光地と呼ばれるようなところはことごとく制覇し、旅行のガイドブックのようなものになっていた。それもついには飽きてしまって、まとめて市の図書館に寄贈した。スタッフがぞろぞろと集まってきて拍手をしたので、すごく恥ずかしいような照れくさいような気持ちになったのが思い出される。

            高校生の頃は<学校で配布されるプリント>を集めた。
            ここまでくると、もう無駄の極みであるが、配られるプリントのほとんど全てをきちんとファイルに綴じた。文房具屋さんに行くとB4サイズの紙ファイルが売ってあって、「こんな大きなファイルがあるんだ」とすっかり魅了されて、これに綴じることにした。お便り系(学級通信、学校通信、保健室だより、進路だより、……など)やお知らせ系(教材費のお知らせ、学校行事のお知らせ、模試のお知らせ、……など)などいろんな種類があるが、こちらは分類したり整理したりせずに片っ端から綴じていった。結果、学年別に3冊ができた。ここで終わればいいのだが、何かに使うかもしれないと思って、高校を卒業してから4年以上も保管していた。これも、つい最近になってから捨てた。時々読み返して面白かったり、懐かしかったりする以外、特に役に立たなかった。

            大学生の頃は<食器>を集めた。
            コンビニでサンドイッチなどを買ってシールを集める。それで規定のポイント分集まると、皿やマグカップと交換できるというキャンペーンを利用した。ゼリーとマグカップがセットになって売られる、というのが流行ったが、それも利用した。来客があったらと思って集めたわけだが、食器だけあっても仕方がないと思って、(足りないと思った)グラスや箸、スプーン、フォークなども揃えた。しかし、そもそも来客がこないようなところに家を借りていたので、そうそう活躍する機会もなく、この<食器>集めも終わった。

            ほとんど何の役にも立たなかった<収集>であったが、こうして振り返ってみて、そういう習慣があることがわかったのは一つの収穫である。これで何かを捨てられずにいるときや、何かを買おうとするときに一度立ち止まることができる。<収集>が目的になってはいないか、と。

            家(部屋)の中や机の上は、自分の頭の中を表すとよく言われる。部屋が散らかっていれば、自分の頭の中も散らかっている、ごちゃごちゃしている、という風に。<ひらめく>ために<具体的にやってみること>は、頭の中をぐちゃぐちゃにする作業である。<ひらめく>ためにあれこれやってみて、読んでみて、聞いてみて、話してみて、そういうことをやっておいて、情報をどんどん自分の中に詰め込んでいく。そうしてその圧迫感から解放されたとき、ぽん、と考えが降りてくる。これが<ひらめき>である。

            部屋がきれいになって何か良い考えが浮かんできたのなら、<収集>も悪くない。しかし何も部屋を物でいっぱいにする必要はない。頭の中に入れておく、ノートに書いておくくらいでいいだろう。これで<収集>の習慣にもピリオドを打ちたい。

            (つづく・数学科 山下翔)


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