川について −4−

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    親子3人並んで横になるとき、それを「川」の字のようだと言うことがある。両親の間に幼い子どもが寝ている様子を、川の字にたとえてのことだ。しかし両親が揃っているとは限らない。シングルマザーの歌人に、次のような歌がある。

    ・子と我と「り」の字に眠る秋の夜のりりりるりりりあれは蟋蟀(こおろぎ)
    俵万智『オレがマリオ』

    親子2人ならば「り」の字のようだ、というわけだ。左が子どもで、右が親。左のはねから右の書き出しへのかすかだが、しかし確かな軌跡が、親と子のつながりを感じさせる。その「り」の発想からさらに、蟋蟀(こおろぎ)の鳴き声「りりりるりりり」へ展開したのはさすが、と言うべきだろう。
    ちなみに俵万智は、オノマトペの使い手としても有名。白菜は「うっふんうっふん」店先に並ぶし、行進の少女は「きびりきびり」と脚を動かす。これは、師事した佐佐木幸綱からの影響もあろう。幸綱の場合、「サキサキ」とセロリを噛んだり、川は「びんびん」と冷え緊まったりする。
    掲出歌は、最新歌集から引いた。第5歌集である。東日本大震災後、宮城から避難した石垣島での歌もたくさん収められている。「り」の左払いが、何となく子どもを包む形に見えて、それは愛情なのかもしれないが、時に、いつまでも子どもを離したくないという束縛にもつながる。
    安部公房は作中で「弱者への愛には、いつだって殺意が込められている」という旨の表現を使っているが、<殺意>というものをどのくらいのものとして受け止めるかによるとは言え、少なくともそういうことがあるってことだ。

    ところで、「り」の字からいろんなことを連想したが、いろんな形や状況があって、そこからできた漢字はたくさんある。「川」の場合、まさに川の流れる様子がそのまま漢字になった。このように、ものの形を象ってできた文字を、象形文字と呼ぶ。簡単な漢字だと、「山」「耳」「火」「竹」「花」などがそうだ。
    川には<流れ>がある。しかしそれはただ流れているわけではない。<型>=流れる場所があって、そこを流れている。この<流れ>と<型>が川の特徴だと言ってもいいだろう。<型>は長い時間の中で、自身の<流れ>によって形を変える。けれども<型>が少しくらい変わったところで違う川になることはない。その存在感ゆえのことだろうか、あるいは、長い時間をかけてゆるやかに変化するからだろうか。
    そういえば人間だって、絶えず細胞分裂、新陳代謝を繰り返している。だからと言って「今のこの自分は、一瞬前の自分とは違う人間だ。」ということにはならない。まあだいたいのものは次の瞬間には少し変化しているのであって、その変化の総体が<型>を作っている。その<型>を作る変化のことを、「川」に準えて<流れ>と呼ぶことにすれば、<流れ>というものがいっそう豊かになるような気がして、またしばらく考えてみたいと思う。

    (つづく・数学科 山下翔)

    川について −2−

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       文明は大河のほとりにおこると言われている。ギリシャの歴史家ヘロドトスの言葉に「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」があるが、中学校で歴史を学んだ人は、世界四大文明といって、

       エジプト文明 ― ナイル河
       メソポタミア文明 ― チグリス・ユーフラテス河
       インダス文明 ― ガンジス河
       黄河文明 ― 黄河

      という風な対応を覚えたと思う。これら四大文明は、北緯20度から北緯30度あたりの大河の流域でおこったものである。大河の洪水によって肥沃な土壌がもたらされ、また、大河を水の供給源として、流域で農耕や牧畜が発達した。このことが文明の大きな成因と言われている。そこから支配者が生まれ、国家の誕生につながっていくわけだが、ここでは立ち入らず、河の話を続けていこうと思う。
       昨年の短歌研究新人賞受賞作に、次のような歌がある。

      ・四大文明いづれも河に生れしこと 冷水器のペダルをゆるく踏む
          山木礼子『短歌研究(2013.9)「目覚めればあしたは」』

       博物館を訪れた場面を詠んだ連作のなかの1首である。
       四大文明が大河の流域に生まれたことを感じながら、その水がいま目の前にあって、それを今度は飲もうとしている。文明をつくるというスケールの大きさ、自分の喉を潤すというスケールの小ささが「水」という1つのものに混在している不思議を感じつつ、しかしそれを反芻しているのだ。時に呑まれ、時に飲む。あるいは古代と今。同じ水に関する、いくつかの対比がある。
       一方でそこには、生を支えるものとしての「水」が共通に浮かんでくる。次は高校生の作品、宮崎県で行われた、第3回「牧水・短歌甲子園」から。

      ・町を飲み家を飲み込み人を飲みコップにおさまり今日は飲まれる
          甲斐樹『朝日新聞(2013.9.3)朝刊/短歌時評』

       初見、すぐに津波を連想したが、それに限らず水害をもたらす水の恐ろしさ。その水を飲むことで今日を生きていることの不思議な関係を思う。
       自然はときに猛威をふるい、大きな、そして深い爪跡を残す。身近な存在であるがゆえの怖さであろう。しかしその自然(ここでは特に河を見たが)との関わりの中で、人間は生命を維持し、文化を発展させ、日々の生活を営み、歴史をつくってきた、という側面がある。

       近くの川を散歩しながら、時々は、四大文明くらい大きなことを目いっぱい想像してみるのもいいかもしれない。ただし、足元には気をつけて。

      (つづく・数学科 山下翔) 

      川について −1−

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         ゆく河の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。―という書き出しで始まる随筆がある。鴨長明の『方丈記』である。古典には詳しくないので、書き出しを知っているというくらいであるが、当面は、この<川>について考えていこうと思う。
         川は川としてそこに在るように思えるが、そこを流れている水は絶えず変わっている。目に見えているのはあくまで表面の流れであって、その中の水の動きまではわからない。表面の流れでさえも、見るたびにその様相は異なる。川の表面のことを川面というが、それもまた、様々な表情を見せる。

         長い時間の中で見れば、川そのものも変形をしている。小学生のとき、理科の時間に水の流れを観察する実験をやった。カーブの外側では砂が削れていき、内側では砂が堆積してゆく。外側では川の流れが速く、内側では遅くなる。横道にそれるが、小学校低学年の時に川で溺れたことがある。この川の流れの仕組みを知らずに、まんまと引きずりこまれてしまったのだ。たまたま近くにいた人が助けてくれたので良かったが、相当驚いたことが思い出される。
         中学生になると、社会の時間に扇状地や三角州を習うだろう。高校の地理では、三日月湖、氾濫原、自然堤防、後背湿地などといった用語が出てくる。いずれも水の流れがつくる地形である。雨が降ったときに、河道からあふれた水が浸水するところを氾濫原という。扇状地より下流になると、勾配がゆるやかになるため、川は蛇行しやすくなり、洪水などによって河道がかわることもあって、三日月湖として旧河道が取り残されるのだ。

         俵万智に「ゆく河の流れを何にたとえてもたとえきれない水底(みなそこ)の石」という短歌がある。第一歌集『サラダ記念日』に収められている。下流の石は、川の流れにもまれて丸みを帯びる。川の底では流れが違うが、そこから「流行とは川の表面の流れのようなものだ」という人もある。宮沢賢治の『やまなし』も川が舞台の作品だ。今年引退を表明した宮崎駿監督の作品に『千と千尋の神隠し』があるが、ここには川の神様が登場する。
         美空ひばりの歌に『川の流れのように』があるが、それについて、かつて「そうよね、人生って川の流れみたいよね。細い川があったり、広い川があったり、曲がりくねっていたり、真っすぐだったり、流れが遅かったり、速かったり。でも、最後には、結局みんな同じ海に繋がっているのよね。」と言っている。これは『文藝春秋(2013.1)』に見ることができる。
         冒頭の鴨長明もそうだが、川の流れやいろいろな様相が人生や人間の行動にたとえられてきた。川のこと、それにまつわることには考えさせられること、感じることがたくさんあるだろう。それをゆっくり探ってゆきたい。

        (つづく・数学科 山下翔)

        まき散らすべからず

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          朝目覚めたら喉が痛い。唾液を飲み込むだけでも痛い。計ってみたら熱もある。インフルエンザか。これはまずい。このまま出勤したらウイルスをまき散らすことになるかも知れない(咳は出ないけど)! ……ということで病院に行ったのが先日のことになります。
          国語科のMです。

          検査の結果、ただの風邪だということがわかって一安心しました。ともかく、非常に感染力が強い上に、かなりの苦痛を与えてくるものではなかったのです。が、暫くのどの痛みが続いたのと、インフルエンザでないにしてもやっぱり菌をまき散らす訳にはいきませんから、ここ数日はマスクをお供に過ごしています。

          ところで、風邪を引くと、もしくは、周りがみんな風邪っぴきなのに一人だけぴんぴんしていると、思い出す言葉があります。この時点でお分かりになる方も多いかも知れません。「馬鹿は風邪を引かない」。箸が転げても笹が揺れても……という時期に、これを友人と言ったり言われたりして面白がったこともありました。面白がったことはあったのですが、なぜ馬鹿は風邪を引かないなんて言われるのかと疑問に思うことは少なかった。そして、その疑問に対する答えを探そうとしたのはついこの間であったりします。
          ……どうやら、「馬鹿は風邪を引いても、そのことに気付かないほど鈍感である」ということのようです。「夏風邪は馬鹿が引く」というのも仕組みは同様で、「冬という風邪を引きやすい時期に引いた風邪を、夏になって自覚するほど鈍感である」ということらしく、結構な鈍感さんをおちょくる言葉であるようですね。「風邪を引く・引かない」こと自体を揶揄する言葉ではないし、「風邪を引いたから馬鹿・引かないから馬鹿」ということでもない。

          私はちょくちょく、授業前後に「風邪を引いてないか」「風邪を引かんように」ということを言うのですが、言っていた側の方が風邪っぴきになってしまうと、どうも、気まずいというか、ですから近頃は「恥ずかしながら私は風邪を引いてしまったのだが、君達は風邪を引かんように」というような言い訳じみた注意喚起になっています。
          お恥ずかしい。
          ただ、この場合私に対して「冬風邪は馬鹿が引く」と、「夏風邪は〜……」をもじった揶揄を向けたところで、先刻の成り立ちを踏まえると全くの見当違いとなる訳で(夏は風邪を引きやすい季節ではありませんからね)、この場合は「医者の不養生」が適切なのだろうと思います。勿論私は医師ではありませんが、注意喚起していた側が、注意していた内容によってダウンするという点では同様なのかなと。

          風邪そのものはもう全快に近いのですが、今後また風邪にやられないように、無論インフルエンザにもかからないように、そして何よりまき散らさないように! 予防の努力を怠るまいと、ちょっと気も早いことですが新年の抱負を一つ設定したところです。

          「しばしとどめむ(※ネタバレ注意)」

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            国語科のMです。

            羽衣がストーリーに深くかかわるお話のことを、羽衣伝説と言います。
            大まかには、「何らかの形で、天女が天から降りてくる。→それを目撃した男が、天女に恋をする。→天女が天に帰ってしまわないように、男はその羽衣を隠す。(→後の展開は様々。)」という流れでお話が進むのですが、逆に、「天人がうちの子をかっさらっていくのではないか。」と、人間の方がやきもきする描写も物語の中にはあったりします。

            例えば、『狭衣物語』などでは、主人公が光源氏を思わせるほど眉目秀麗であるのみならず、和歌を始めとする種々の才覚に恵まれすぎているものですから、その母君は「天人などの、はじめて天降り給たるにや(天人なんかの生まれ変わりでいらっしゃるんじゃないかしら)」と思ったり、風が吹いても「まさか天からの迎えが」、月の光が眩くても「まさか月からの使者が」、とそわそわしたりして、風の音・月の影をも忌々しく思うという描写があります。笛を吹いていたら実際に迎えに来た物語もあったのですが、あれは何という題名のお話だったか。
            また、『夜の寝覚』という物語では、天人が主人公の中の君に、夢の中で琵琶を教える場面があります。こちらは、才覚及び見目形の素晴らしいあまり天の国に連れられてどう……という展開ではなく、天から琵琶の才、そして予言めいた言葉を授かるという描写になっています。

            そして、天人が関係する最も有名なお話と言えば恐らく『竹取物語』なのですが、先日から上映が始まりましたね。かぐや姫の物語。国語科ですもの。観て来ました。

            竹取物語自体は何度か読んだことがありましたが、かぐや姫が地上に下された理由、そして彼女の心の動きについて、あんなに深く考察したことはなかったなあ、げにさもとや思ふらん……と、折々考えつつ楽しんできました。楽しむ途中で、冒頭の羽衣伝説を思い出した訳です。かぐや姫が地上に降りたその経緯も、もちろん劇中で表現されていましたが、もしや羽衣伝説が別の形で絡みはしないか、もともと地上人だったとしたら等々。
            夕顔や末摘花の例もありますから、粗末な屋敷に住む女性が召し上げられることもあったでしょう。天真爛漫な女の子がそうやって都住まいを始め、ひとり寝る夜の明くる間という思いをし、嘆きのない天上に迎え入れられたは良いものの故郷である地上を恋いして、何度もそれを繰り返しているとすれば、これもまた罪なのだろうなと映画を思い返しつつふと思ったのでした。

            一個人のちょっとした感想です。


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