もものはな

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    前回の更新から、またしても間があいてしまいました。すみません。


    昼間はすっかり暖かくなり、春らしい景色がそこここで見られるようになりました。
    九大研でも、庭木が芽吹いたり、花が咲いたりしています。 

    この前の雨で散る前の桃の花。


    寄りショット。


    雨が降った後は、花が散ってしまいました。 緑の葉がキレイ。


    ミツバチがせっせと働いていました。

    花粉団子を足にくっつけちゃって、可愛いですね。


    そういえば、半月前に退治(?)したフジも、一部芽吹いていましたので、次回アップしたいと思います。

    大掃除!

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      長らく更新が止まっておりましたが、ブログを再開します。

      九大研は3月11日から17日まで、一週間授業休みです。
      といっても、完全な休みというわけではなく、昨日と今日は大掃除をしております。

      部屋数が多く、物も多いので、年度末の大掃除はかなり大変です。
      部屋の掃除だけでも、
       机・イスの移動→梁の掃除→床の掃除機がけ→ワックスがけ2回→机・イスの移動
      こんなかんじ。

      また、約一年間、庭木の手入れをしていなかったので、剪定バサミなど簡単な道具を揃えて取りかかりました!

      ↓↓↓その結果↓↓↓

      「庭にモンスターが現れた!!」 と言わんばかりの

      巨大な

      木の枝の山。(主成分=フジ)

      夏の間、サクラの木にフジが絡み付いて茂っていたので、葉が落ちた今がチャンス!
      結局、写真のように、かなりの量を切りました。

      とはいえ、フジは繁茂力(?)が旺盛なので、今後も続けて手入れして行く必要がありそうです。
      来年度は庭の手入れもがんばります!

      川について −4−

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        親子3人並んで横になるとき、それを「川」の字のようだと言うことがある。両親の間に幼い子どもが寝ている様子を、川の字にたとえてのことだ。しかし両親が揃っているとは限らない。シングルマザーの歌人に、次のような歌がある。

        ・子と我と「り」の字に眠る秋の夜のりりりるりりりあれは蟋蟀(こおろぎ)
        俵万智『オレがマリオ』

        親子2人ならば「り」の字のようだ、というわけだ。左が子どもで、右が親。左のはねから右の書き出しへのかすかだが、しかし確かな軌跡が、親と子のつながりを感じさせる。その「り」の発想からさらに、蟋蟀(こおろぎ)の鳴き声「りりりるりりり」へ展開したのはさすが、と言うべきだろう。
        ちなみに俵万智は、オノマトペの使い手としても有名。白菜は「うっふんうっふん」店先に並ぶし、行進の少女は「きびりきびり」と脚を動かす。これは、師事した佐佐木幸綱からの影響もあろう。幸綱の場合、「サキサキ」とセロリを噛んだり、川は「びんびん」と冷え緊まったりする。
        掲出歌は、最新歌集から引いた。第5歌集である。東日本大震災後、宮城から避難した石垣島での歌もたくさん収められている。「り」の左払いが、何となく子どもを包む形に見えて、それは愛情なのかもしれないが、時に、いつまでも子どもを離したくないという束縛にもつながる。
        安部公房は作中で「弱者への愛には、いつだって殺意が込められている」という旨の表現を使っているが、<殺意>というものをどのくらいのものとして受け止めるかによるとは言え、少なくともそういうことがあるってことだ。

        ところで、「り」の字からいろんなことを連想したが、いろんな形や状況があって、そこからできた漢字はたくさんある。「川」の場合、まさに川の流れる様子がそのまま漢字になった。このように、ものの形を象ってできた文字を、象形文字と呼ぶ。簡単な漢字だと、「山」「耳」「火」「竹」「花」などがそうだ。
        川には<流れ>がある。しかしそれはただ流れているわけではない。<型>=流れる場所があって、そこを流れている。この<流れ>と<型>が川の特徴だと言ってもいいだろう。<型>は長い時間の中で、自身の<流れ>によって形を変える。けれども<型>が少しくらい変わったところで違う川になることはない。その存在感ゆえのことだろうか、あるいは、長い時間をかけてゆるやかに変化するからだろうか。
        そういえば人間だって、絶えず細胞分裂、新陳代謝を繰り返している。だからと言って「今のこの自分は、一瞬前の自分とは違う人間だ。」ということにはならない。まあだいたいのものは次の瞬間には少し変化しているのであって、その変化の総体が<型>を作っている。その<型>を作る変化のことを、「川」に準えて<流れ>と呼ぶことにすれば、<流れ>というものがいっそう豊かになるような気がして、またしばらく考えてみたいと思う。

        (つづく・数学科 山下翔)

        川について −3−

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           穂村弘の『整形前夜』を読んでいて、不思議な本に出会った。長新太の『ゴムあたまポンたろう』だ。もしかしたらすでに有名なのかもしれないが、この言葉を見て、しばらく笑いをこらえるのに必死だった。今度誰かにあだ名をつけるなら、これを使おう。

           「おいっ! ゴムあたまポンたろう!」
           「何ですかそれ?」
           「今日からお前のあだ名だよ。」
           「いやいや、適当すぎますよ。」
           「はー? 完璧だろ。ゴムアタマポンタロウだぞ、ごむ頭ぽん太郎。」
           「いや。なんか頭悪そうですし……。」

           それで実際にはどんな本なのかと思って調べたところ、童心社という出版社から刊行されていることがわかった。童の心で「憧れ」だ、うんうん、と妙に納得してしまって、それから本屋へ足がのびていない。

           立春が過ぎて1週間、今日は私立高校の合格発表。まだまだ寒いとは言っても、だんだん春が近づいてきている。ふだん歩くところにも梅の花がずいぶんと咲いている。「ああ春だなあ」と思いながら、肩をすくめて歩く、なんとも不思議な季節だと思う。
           日頃の運動不足をどうにかせねばと思って、ときどき近所の川沿いを歩く。家の近くに名柄川という川があって、河口はマリノアシティの側を通っている。それを河口から上流へ向かって歩くのだが、これがなかなか面白い。
           河口からしばらくは、両岸にびっしり舟が並んでいる。鴨の曳く水脈が朝日にぎらぎら光っていたり、川鵜が獲物めがけてぐいぐい潜っていったり、唐突にボラが跳ねては鈍い音をたてて川へ落ちたり、眺めているとなかなか楽しい。
           川の色は、日や時間帯や天候によって様々だが、春のおだやかな日の、みどりの川が結構好きだったりする。長柄川は残念ながらきれいな川とは呼べないが、それでもなんとなく落ち着いた気持ちになってくる。「ゴムあたまポンたろう」を思い出してにやにやしてしまいそうだ。

          ・母が作り我れが食べにし草餅のくさいろ帯びて春の河ゆく
               高野公彦『雨月』

           幼い頃、祖母の家に行くと、きまって蓬餅を作ってくれた。それがもうおいしくて、帰りのバスで食べるようにと持たせてくれるのだが、それを食べたくて祖母の家まで行っていたのではないかと思うほどだ。祖母の家まではバスと電車を乗り継いで4時間くらいかかるが、知らない街へ行くことも、ふだんは乗らないバスや電車に乗ることも、楽しみだった。
           子どもの頃というのは、もちろん周りのものに対する恐れもあるが、それでも何かとわくわくしていたように思う。新しいことや大人のやることに、目をきらきらさせていたんだなあ、と。
           掲出歌では、「くさいろを帯び」た「春の河」を歩きながら母の作ってくれた草餅を思い出している。おそらく母はもう亡くなっているのだろうが、それを食べていたあの頃が思われて、何だか温かい気持ちになったのかもしれない。
           春は別れと出会いの季節でもある。ぐちゃぐちゃといろんな思いが綯い交ぜになって、もやもやすることもあろう。憧れは童の心、ときどき初心を思い返しながら区切りの春を過したい。それでも何だか心が晴れないときは、おだやかな春の川辺を散歩しよう。「ゴムあたまポンたろう」を思い出して、一人にやにやするのも悪くない。

          (つづく・数学科 山下翔)

          川について −2−

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             文明は大河のほとりにおこると言われている。ギリシャの歴史家ヘロドトスの言葉に「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」があるが、中学校で歴史を学んだ人は、世界四大文明といって、

             エジプト文明 ― ナイル河
             メソポタミア文明 ― チグリス・ユーフラテス河
             インダス文明 ― ガンジス河
             黄河文明 ― 黄河

            という風な対応を覚えたと思う。これら四大文明は、北緯20度から北緯30度あたりの大河の流域でおこったものである。大河の洪水によって肥沃な土壌がもたらされ、また、大河を水の供給源として、流域で農耕や牧畜が発達した。このことが文明の大きな成因と言われている。そこから支配者が生まれ、国家の誕生につながっていくわけだが、ここでは立ち入らず、河の話を続けていこうと思う。
             昨年の短歌研究新人賞受賞作に、次のような歌がある。

            ・四大文明いづれも河に生れしこと 冷水器のペダルをゆるく踏む
                山木礼子『短歌研究(2013.9)「目覚めればあしたは」』

             博物館を訪れた場面を詠んだ連作のなかの1首である。
             四大文明が大河の流域に生まれたことを感じながら、その水がいま目の前にあって、それを今度は飲もうとしている。文明をつくるというスケールの大きさ、自分の喉を潤すというスケールの小ささが「水」という1つのものに混在している不思議を感じつつ、しかしそれを反芻しているのだ。時に呑まれ、時に飲む。あるいは古代と今。同じ水に関する、いくつかの対比がある。
             一方でそこには、生を支えるものとしての「水」が共通に浮かんでくる。次は高校生の作品、宮崎県で行われた、第3回「牧水・短歌甲子園」から。

            ・町を飲み家を飲み込み人を飲みコップにおさまり今日は飲まれる
                甲斐樹『朝日新聞(2013.9.3)朝刊/短歌時評』

             初見、すぐに津波を連想したが、それに限らず水害をもたらす水の恐ろしさ。その水を飲むことで今日を生きていることの不思議な関係を思う。
             自然はときに猛威をふるい、大きな、そして深い爪跡を残す。身近な存在であるがゆえの怖さであろう。しかしその自然(ここでは特に河を見たが)との関わりの中で、人間は生命を維持し、文化を発展させ、日々の生活を営み、歴史をつくってきた、という側面がある。

             近くの川を散歩しながら、時々は、四大文明くらい大きなことを目いっぱい想像してみるのもいいかもしれない。ただし、足元には気をつけて。

            (つづく・数学科 山下翔) 


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